これまでの10年

24-25シーズンが終了しました。

今年はまぁなんというか雪崩で言うと変なシーズンでしたね。
3月いっぱいまでは気温が高く推移して、降雪量は多かったですが
白馬で降る雪質は変わってしまったな〜と実感しています。
体感で言うと妙高で降る雪が白馬で降っている印象でした。

暖かい雪が降っていたため、焼結スピードが上がり、グライドクラックが至る所で開き、3月に大規模な全層雪崩や湿雪雪崩が発生したり、発生する雪崩すら変わってしまったなと感じています。

今回書きたいのは雪崩の話ではないのでこの辺にして

自身もシーズンアウトしたわけですが、最後はアライリゾートのキッカーで360°を回して、飛び過ぎオーバーで、クラッシュして、肩鎖関節亜脱臼にてシーズン終了となりました。

まぁなんとも情けない終了の仕方ですが、結構満足しております。

何故かと言われたら
技術を上げたり、攻めるシーズンと決めていたからです。

ブログでは書いていませんでしたが。2月1日に長年お世話になった八方尾根スキー場を辞めました。
そこから何をしていたか?というととにかく滑って、滑って滑りまくっていました。

スピード域を上げたり、技術を上げたり、チューンナップを学んだり、ジムでトレーニングしたり、スキー技術を磨いていました。

暇なの?と聞かれたらそんな事はありません。
結構必死にトレーニングに邁進しておりました。

何故なら
この10年、呆けていたわけではないけれども
全ての行動に制限をかけてセーブしていたからです。
雪崩管理の責任者という立場上、怪我するわけにもいかないし、病気もできない、休みだって取れない年だってありました。
何かを犠牲にして取り組まないと今を形作る事はできなかったと思います。

だから滑りの面でも怪我できないからセーブしてつまらない滑りをしていたわけですよ。
このままでは次のミッションはこなせないと八方を辞めてからは“攻める心“を取り戻してスキー技術を高めるために本気で練習をしていました。

その先の怪我、怪我をした理由もわかっているので自分では納得しています。
攻めた先にその結果があったので。(怪我はしたくないですけどね笑)

次の10年の舞台は“山“
今までの自分じゃ絶対に乗り越えられないと思っていたので。

20代を犬に捧げて

次の10年を語る前にこの10年を振り返っておきたいと思います。

過ぎ去った事ですが、記録として残しておかないと時間も時代も流れていってしまうので書き記すことにしました。

私が雪崩の世界に入り込むきっかけとなったのは“山岳救助犬“の育成
もう15年以上も前の話、その当時はハーフパイプの選手として活動しており、怪我をしてスキー界からは離れて、会社員として普通に働いていました。

そんな折に知り合いから山岳救助犬を育成してくれる人を探している
という話をもらい、引き受けることにしました。
日々に飽き飽きしていたんですよね、刺激がないし、何かやりたいな…と思っていました。

犬が好きだったし、まぁ山育ちだったので山も多少は行けるだろうと軽く引き受けたのですが…

まぁこんな茨の道が始まるとはね。

小日向山に雪洞泊訓練に行った時に撮影した写真
今は亡き“山岳救助犬ナナ“若いな〜

救助犬を育てるって簡単なことではないんですよね。
特に山岳域や雪崩を主とするなら、飼い主(ハンドラー)が山に精通していないならず。
犬自身も山に入れたり、雪山を歩けたりしないといけないわけですよ。

単純に捜索の練習だけをすればいいわけではなく
山での活動する訓練や、滞在訓練、タフな身体と精神が求められます。

誰にでもできるわけじゃないし、犬種も選ぶ
自分は犬が決まっていたのでシェパードでしたが、海外の雪崩救助犬はラブラドールも活躍していたりします。

どうやって人を探すことを始めるかというとかくれんぼから始めます。
まずは隠れて名前を呼んで探させる、できたら声をかけずに探させる
その難易度をどんどん上げていって、飼い主〜家族→他人と別の人を探す練習をしていって。山や雪山にフィールドを移していく

特に雪山の訓練となると人手が必要で、スキー場などの協力が必要であった。

現場で目の当たりにしたもの

当時は白馬村のNPO法人ACTに入って救助犬の活動をしていた。
昨年の夏にACTが解散するという噂を耳にした時に時代は変わったな〜と思った。
(様々な経験を積ませて頂きました。本当にありがとうございました)

当時は現場に出るのも一苦労だったわけですよ。
国立公園に犬を入れるという理解を得ること、捜索の出動のタイミングだったり
一番苦労したのは出動のタイミングですかね。

そのNPOの代表が一部の方とあまり仲が良くなかったためか、世間の理解が追いついていなかったからか。
出動するタイミングはいつだって、警察、消防が捜索を打ち切った後
日数が経過していて、雪の中や山で人を探すのは困難を極めました。

犬が人を探すときにどうやって探しているかと言うと
臭いで探しています、対象の人の匂いを空間から嗅ぎ分けて、その臭いが一番強い場所を辿っていくわけですが、これがなかなかに難しい
遭難者が生きていて、体温を保っていれば匂いは発し続けているわけですが
雪の中だったり、日数が経ってしまうと臭いは雨風に流されたり、弱まってしまいます。

これで現場に出て捜索にあたってもなかなか結果に結び付きづらいんですよ。
そうなると「救助犬ダメじゃん」ってレッテルを貼られてしまい、より呼ばれにくい負のループにハマってしまう。


ビーコンを持っていない人をこの中から探し出してください。(ビーコンを持たないと言うのがどれだけ絶望か分かりますか?)

それでも厳しい状況の中、結果に結びつくこともあり
後半はそれなりに信頼を得てきたのかなと感じることもありました。

まぁでも救助犬をやっていた時に本当に苦しかったのは「遺体を捜索するためにやっていない」ということでしたね、海外から遺体臭を取り寄せて訓練したり、何のためにやっているのだろうと、心がすり減り、自暴自棄になっている時期もありました。
あの頃は20代だったんでね‥本当に若かった。

今は何も思いません。
役に立てることがあれば全力で頑張ります。と言う感じですね。
この辺りのリアルな心情はこちらで書いています👇

事故の先にあるもの

当時は、犬を連れて捜索に入ることもスキー場に常駐させることも初動で出動することも高いハードルがあった。理解を得なければならなかったから。
時代が変わり、降る雪が変わり、発生する雪崩が変わり、スキー場内で雪崩が発生するリスクが高まってきた。
今、雪崩救助犬を育成します。と言ったら皆んなが口を揃えて言うだろう
いいね👍と

もうやらんけど。

冗談抜きに白馬地域に最低でも1頭は救助犬が必要だと思う。
それくらいスキー場は当時と比べ物にならないくらいスキー場内での雪崩の危険度は増している。

雪崩の礎

救助犬をスキー場に常駐させると同時に始まったのが「雪崩管理」の仕事
当時は雪崩のことなんて知りもしなかった。救助犬を活躍させたい一心で、必要にかられて雪崩管理をしながら雪崩を学んでいった。

当時、本当に恵まれていたなと思うのは
アメリカから雪崩のプロフェッショナルであるダグが爆薬を使用しての雪崩管理の指導に来ていて、国内でも屈指のメンバーに囲まれて仕事をしていたことでしょうか。
右を見ても左を見てもプロばかりで学びの多い貴重な時間だったなと振り返ります。

当時は訳も分からず、栂池高原スキー場での事業立ち上げの時でもあったので本当にてんやわんやの日々でした。
今でも鮮明に覚えているのは、初めて爆薬を使用した日のこと
震える手で爆薬に点火して、爆発した爆薬を見た時に心の底から「世界平和」を祈った。
こんなものを人に使用する日が訪れませんように…と

20代の頃は爆薬を使用する日はとにかく燃えていましたね。
何かこう自然に立ち向かうような、人間の作り上げた爆薬という叡智で自然をコントロールしているような感覚に陥っていた。(今はそうは思っていない)

ここでも若かったんでしょうね笑

何にも考えずに雪崩と向き合うのが楽しかった。
その頃メカニズムなんてあまり考えていなかった、ただ感覚的に発生区が分かっていたので切って切って切りまくる日々、時には爆薬を使用してでかい雪崩を起こす。

雪崩を見るのが楽しくてしょうがなかったんですよね。

動かぬものだと思っていた雪崩が川の流れのように動き出す。
もっと大きい雪崩を起こしたいとずっと考えていましたね。

栂池時代に学んだ最大の学びは
“チームワーク“と“プロフェッショナル“としての在り方

チームワーク

前記したようにチームは最高のメンバーに囲まれていた。
本当に優れたチームというのは言葉はいらないんですよね。
阿吽の呼吸で全てが動き出す。
それが本当に心地よかった、相手が今何を考えて、求めているかが伝わってくる。
あの時、以上のチームワークには未だに出会ったことがない、またあの境地に入れることはあるのだろうか?願わくばそういうチームを作り上げてみたいものだ。

 

プロフェッショナルとしての在り方

雪崩管理を始めた頃に思ったのは今のままの自分の考え方や行動で雪崩と向き合っていたら“いつか死ぬな“ということ
刻々と変化する自然を相手にしているわけで、過酷な環境で爆薬を使用したり、スキーカットで雪崩を処理する。
特に栂池高原スキー場内の雪崩発生区は樹林帯の中にあり、カットに失敗して雪崩に引っ張られたら木に激突したり、怪我する可能性が高かった。
そんな環境下で活動していたからより、このままでは良くて怪我か死ぬなと考えていた。

どうやって変化させていったかと言うと
目の前にいる、プロであるダグをマネることにした。

ダグの立ち振る舞いを真似て、用具を寄せて、ダグならどう考えて、どう行動するか?を常に考えるようにした。

なんでそうしたか?細かいことは覚えていないが
ダグの圧倒的なスキルを目の当たりにして
プライベートでは、足湯とお酒が大好きだったダグ

仕事とプライベートを分けて上手に活動している彼に惹かれたのだろう。

だって立ち振る舞いがプロなんだもん
カッコ良かったんだと思う。

彼みたいなになりたいな〜と考えていた。

自分を捨てて、プロに成り切る(実際にはその域には達していなかったが)真似ることで知識や技術を身につけていく段階は早かったように思う。

個性とか個とかオリジナリティーが尊重される現代
んなもんクソの役にも立たないし、仕事をする上で邪魔だから勘弁してくれと私は思う

個性や個、オリジナリティーを発揮したいのなら、何かを形作ってからでも遅くはない
何にも出来ない奴に個性を出されるほどめんどくさいことはない

ダグにはプロフェッショナルとしての“在り方“を学んだ。
誰しもが“成り方“ばかりを考え、情報が溢れる時代に“在り方“を学べたのは貴重な経験だったと思う。現代はプロや職人が少なくなってしまったからね。
自称は多いが笑

野心を抱いて

栂池高原スキー場で4シーズン雪崩管理を経験した後は
八方尾根スキー場に活動の舞台を移した。

八方尾根スキー場に来たのは明確な野心や野望があった。
八方の雪崩管理に爆薬を導入して、FWTの雪崩管理に入るため。

あの頃の日本のスキー場、業界は本当に勢いがあった。
八方尾根スキー場は長年立ち入り禁止エリアであった“おむすび“を開けるという年で噂は耳にしていたので丁度いいタイミングで八方尾根スキー場に入れたと思う。

まぁでもあの八方ですよ。
当初は本当に苦労しましたね。
栂池で最高のチームを経験した後に、雪崩の知識がない人たちとの仕事(バカにしていない、今はトップレベル)
自分の命は自分で守るしかないなと決意を固めて乗り込みました。

書きたいことはいっぱいあるけど、ただの愚痴になるので書きませんが、本当に変化を起こしていくのは大変だったというのだけは理解して欲しいなと思います。

今でも忘れないのは雪崩管理の初日の日
まずは相手に敬意を表して、八方独自の雪崩管理に従うことにした。
何でこんなやり方をするんだろうという思いや言葉を飲み込み
自分のスキーカットの番がやってきた。
「森山いきます」と無線を入れて動き出す。
雪崩が出そうな気配があったので、ピンポイントでジャンプカットをしたらズバッと亀裂が入り、面発生雪崩が発生した。


スキーカットを終えて面発生雪崩を誘発した時の写真
先輩たちは興奮していた、ここでこんな雪崩は見たことがない!と
やっぱり、入り方が違うとか、カットの仕方が違うとか…

あぁ〜神様っているんだなと思った。
この出来事以降、どれだけ仕事がやりやすくなった事か…

FWTフリーライドワールドツアー

1年目の雪崩管理を何とか無事に終えて
2年目に向けて爆薬が導入できるように動き回った。

爆薬の有用性を資料にまとめて、八方の雪崩管理にどれだけ有効で必要か

夏の盛りに爆薬の導入許可が降りたとパトロール隊長から連絡が入った。

喜びもあったが、簡単な話でもなかった。
爆薬を使用するということは違う要素の危険度も上がる
マネージメントがしっかりと出来ていないと爆薬による死亡者が出る
管理的に楽になる部分もあれば、違う面で危険度上がる
全てにおいてセーフティーというものはない

安全管理の原則として
あなたが今、日常生活に“安全や安心“を感じているのであれば、それは誰かが見えないところで危険を犯しているからに過ぎない

爆薬取扱のルールの厳格化
爆薬の仕込み方
爆薬の点火手順
現場での取り扱いなどやることは多岐に渡った。
繰り返しになるが、爆薬を取り扱える(経験者という意味)のが自分しかいなかったというのも難易度を上げた要因の1つでもある。
(何事も立ち上げって本当に大変ですよね。でも経験値も高くなるし、初めての苦労があれど報われる部分もあるので一度味わうとやめられないですよね)

爆薬の導入が決まったと同時にFWTの雪崩管理に入っていくための交渉も開始した。

下話は前年の冬から行なっていた。
来年までに爆薬を導入するので、雪崩管理に入りたいと

なぜ?

国、県、村が推していた大会なので
この大会の雪崩管理に入ることが出来れば

“国立公園内“爆薬を使用して雪崩管理を行なった。

という実績が取れると考えていたからだ。

雪は少なくなっていくことは目に見えていたし、インバウンドの勢いもあり
当時はスキー場、スキー業界に勢いがあったことから
山にリフトをかける、山を開放するという流れが確実にあった。

詳細は伏せるが、偵察に何度か山に入っている。

そういう流れは確実にあった。

山を開放するには、山にリフトをかけるには
爆薬を使用して雪崩管理を行う必要がある。

白馬のスキー場の上は国立公園しかない
ここで爆薬を使用するには、実績が絶対に必要になってくる。

FWTがきっかけになる、むしろこの機を逃したら絶対に実績を取ることはできないと考えていた。

詳細を知りたい方は FWT HAKUBA に賭けた想い. を読んで欲しい

ここでやらなきゃ誰がやる?
他にこの実績を作れる奴はいるのか?と本気で考えていた。

今でも忘れはしない、左は初めて国立公園内で雪崩管理を終えて破断面を見つめる自分
右、子供の頃から憧れだったタナー・ホール、自分が管理した斜面を憧れのスターが滑る、彼に憧れてフリースキーを始めて同じ舞台に立つことはできなかったけど、巡り巡って立場が変わって同じフィールドに立つことができた。

打ち砕かれた野望、10年計画に終止符

FWTの雪崩管理は無事に終わり
大会4年目にして、崩沢という最高の舞台で大会を開催することができた。
当時の映像は海外でも結構話題になっていたみたいで、HAKUBAブランドが世界中に向けてより広く発信されていった瞬間でもあった。
それに貢献できたことは本当に光栄でしかない。

FWT終わりの足で関係者を集めて次のステージに向けての話し合いが始まった。
本当に勢いがあり、あぁ〜このまま山に向かってリフトがかかっていくんだろうなと確信を得ていた。

そこに訪れたのが
新型コロナウイルスの世界中での蔓延

全ての計画がぶっ飛んだ瞬間だった。
あぁ終わったなと思ったし、本気でスキーを辞めようと思った。

国立公園内での爆薬使用の実績は取れたが、自分の役目はここまでだったんだなと思った。

師との出会いと別れ

八方に移った時に苦労したのは
栂池高原スキー場で見ていた雪崩と八方の雪崩が違ったこと(樹林帯、山岳域、標高、地形などの違いによる)

栂池では仲間に恵まれていたこともあり、八方では自分がしっかりしないと仲間を殺すなと思った。

どうしたもんかと考えついた先に「アルプス雪崩研究所」の若林先生を訪ねて、雪崩を教えてもらうことにした。

今までは感覚だけで雪崩をとらえてきたが、一から雪崩を学び直して、科学的なアプローチからも雪崩を見る必要性があると考えた。

八方に来て「雪崩がわからなくなりました」「雪崩を教えて頂きたい」と先生に話をすると先生は快く「では月に1回カフェでお茶を飲みながら雪崩の勉強会をしましょう」と言ってくださった。

今すぐにでも雪崩を知りたいと思っていた自分はその日が来るのをいまか今かと待ち続けていた。

記念すべき第1回目の雪崩の勉強会はまさかの「雪崩の歴史」笑
なぜ、人が雪崩を意識して、雪崩が研究されるようになったか…

いや、今それ自分は知りたくないんですけど!笑
今すぐ、雪崩のメカニズムが知りたいんです!と心の中で叫びつつ

先生の話に耳を傾け、引き込まれていった。

第1次世界対戦の時に、ヨーロッパのアルプス山脈を飛行機が超えられない時に、戦争兵器として雪崩は利用された…

2回目は国内の雪崩裁判について

いや、また自分が知りたい内容と違うな!と思ったが、ものすごく勉強になった。

何故なら自分はスキー場で雪崩管理をしていて、ユーザーの命を預かっているから、何に意識を置いて、データを集めていかなければいけないか。

この話があったからかは分からないが
ない頭を絞って行き着いたのは、八方尾根スキー場に設置されていた。
気象観測機を利用して、過去データを辿り、どういう気象条件のもと雪崩が発生しているのか探ることにした。

そうすると、今まで感覚だけでやっていた雪崩の違う姿が見えてきた。
最初は広いレンジで見て、この風速からこの風速までで発生していたと当たりを付けて
何となく分かってきたなと思っても、気温や雪質、旧雪との兼ね合い
雪温や降雪量によってレンジは変化してしまう。

2年もそんなことをやっているとだいぶ、レンジが絞れてきて

予測を立てて、実践して、結果から検証をする
予測が当たれば、何故当たったのか?
予測が外れたら、何故外れたのか?
のサイクルが出来上がり、予測の精度は年を重ねるごとに上がってきた。

雪崩の本質へ

先生から教わった理論を現場に当てはめて、検証をする
検証結果を持って、先生に報告して、あぁでもない、こぅでもないと議論を交わして
また現場に戻り、検証をする。

栂池時代は自然に立ち向かっていた感覚もいつの間にか自然と対峙して
寄り添い、声に耳を傾けるようになっていった。

先生からはよく「自然は合理的にできている」

「常に疑いを持って現象と向き合いなさい、多数決で意見が多いから正しいというわけではない、常識に捉われるな」
「自然の声に耳を傾ける、自然に声に耳を傾ける」

ことを教わりました。

そうしたら、雪崩の姿が変わって見えてきたんですよね。
自然循環のなかでの雪崩の必要性を教わり、雪崩が美しく見えるようになった。
それはまるで意思を持って動く生物のように感じることさえあった。

自然からのメッセージ

先生の話を聞いていると、自然が語りかけてくると幾度となく耳にすることがあった。
当時は、どうやったら自然と対話できるのだろう?
自然が声を発するのか?超能力的な力なのか?と色々考えていた。

ある時にふっと気がついたのは

仮説、検証、予測のサイクルを繰り返しているうちに
これから起こりうる結果が予測出来て、その通りにことが起こり
あたかも自然が語りかけて答えを教えてくれたような感覚を覚えることがあった。
あっ!これが先生が言う自然が語りかけてくると言うことか…!!

と嬉しくなり、先生の家を訪ねて、こんな体験をしました!
これが自然が語りかけてくると言うことですよね!と先生に言ったら

ニタリと微笑みかけてくれたことは一生忘れることはできないだろう。

晩年の先生との会話は本当に面白かった。

ここではまだ書けないようなトンデモな雪崩話を繰り返し、互いに昇華していく
かけがえの無い友人との秘密の雪崩話をしているようで本当に楽しかったなぁ〜

人ならざるものと対話する者たち#1

故:若林隆三先生「雪崩と生きる」

その頃の話は上記の2つに書き記してあります。

時を同じくしてGoldwinさんから活動の密着を頂いて、世に映像を出す機会を頂いた。
あの頃に語った言葉の1つ1つは嘘偽りなく、語ることができた。
先生からの教えを次の世代へ、あの時に出てきた言葉はまじで神がかっていたなと思う
今でもぶれそうになった時に見返す大切な動画です。

Snow River

雪崩のその先へ

コロナ禍がきてもスキーを辞めずに乗り越えて来られたのは先生と出会い
自然を解き明かしていく面白さを知ったからだと思う。

ただ、こう物事を推し進めていくだけの日々だったら辞めていただろうなと思う

それでも計画がぶっ飛んだ時には本当にショックでしたよ笑

八方に行って、爆薬を導入して、山へと進出していく10年計画が白紙になってしまったのだから。

物事が動く時ってタイミングと“勢い“があるじゃないですか

そのタイミングと勢いがきているなと感じていたからこそ脱力感が半端なかったですね…

結構、端折って書いてはいますが。
過去のブログを読み返してみると、そのポイントポイントで結構いい事書いているなと思うんですよね。

この2月に八方尾根スキー場を辞めたことで“スキー場の雪崩管理“という仕事に一区切りをつけました。
辞めたわけではなく、一区切りです。

次の活躍の舞台は山だと考えています。
この冬は次の10年に向けて新たなプロジェクト複数スタートしました。

次のブログは「これからの10年」ひとまずは計画通りにことは進まずに
狙った着地点には到達できませんでしたが、10年計画に一区切りがついたので書き記すこととしました。

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