ニセコ:雪崩処理原始時代
ニセコ:雪崩処理原始時代
■ 1958年北海道大学スキー部山班に入部
最初の 3 年間で 312 日間山に入り、うちニセコで 32 日を過ごした。
■ 1983年6月、38ページの冊子を農学博士・新田隆三が刊行した。 それは Avalanchist としてもニセコに四半世紀通い続けた成果であった。
- 実は、北海道庁の林務部技師に、油津雄夫(ゆずたけお)という優秀な企画マンがおら れ、中身は彼との合作であった。たとえば道庁から西部不動産への声掛けがあったから こそ、系列の朝日航洋株式会社がニセコ山頂付近の地形と積雪分布の関係を、空中写真 撮影により解析している。いずれにせよ、ニセコ繁栄の基礎は油津技師が築いた。
- 当時地元ニセコ町の総務課長に、北大医学部薬学科出身の逢坂誠二(現・立憲民主党代表代行) が座り、強力な応援もあった。
新世紀、ニセコ新谷時代の到来
- 日本を代表する冒険家・新谷暁生(しんやあきお)は、札幌西高生時代に私の率いる山ス キーパーティーで、余市岳に連れてってもらったという記憶を語る。7 年ぐらい歳の差 があるようだ。
- ペンション・ウッドペッカーズを拠点にして、彼が心血を注いでニセコを雪崩安全な山に変えていっ たことは言うまでも無い。誇らしい業績である。
(新谷暁生;北の山河抄 東京新聞2003年発行) ―――――――――――――――――――――――――――――――――――
1980 年代、頼るはスコップと人海戦術のみ
■ 84年1月下旬のこと、空っ風の支配する筑波研究学園都市にニセコからSOS電話が入 った。スキー場の斜め上方の斜面積雪に大きなヒビ割れが入った。とりあえずリフト営 業を止めてあります。メディアは今にもニセコ全体が雪崩で潰されるかの如きニュース を連日流すので、客足が激減した。このままじゃスキー場はさびれ、人々の収入もゼロ になります。シェンシェー、何とかなりませんか・・
■ 密かに神仏に祈る Avalanchist
■ 千歳空港からタクシーでニセコへ。夕闇迫る中、三十名近い関係者一同、山頂近く まで雪上車を連ねて登る。雪上車を降りると体は腰まで雪にもぐり、吹雪が頬を叩き、 鼻水が凍り付く。クラックをのぞきこんで 20 分、何とか手がかりを得た。
■ 翌日の昼、スキー場のレストランに記者会見の席が設けられた。『この雪割れ目は雪崩にならない可能性がある。たとえ雪崩れても、スキー場の方向には落ちないだろう。 リフトの営業を再開しても差し支えないと思う。ただ・・・』
- メディアを通じて私の安全宣言を知った知人達の反応。『新聞を読んだ息子は、喜んで ニセコへ飛んで行っちゃったよ。エラいんだね、あんたは』、『100%安全なようなこと は、普通は公言しないもんだよ。度胸がいいなあ、あんたは』
- もちろん一番エラいのはメディアの力である。日ならずしてニセコスキー場は息をふき かえした。しかし私が心底から笑える季節を迎えたのは、その 4 ヶ月後だった。太陽が ほほえみ、雪割れ目は雪崩にもならず消滅した。欧米のスキー場では人工雪崩爆破で日常的にコースの安全を確保している時代に、なんたる文化格差!
でも、とにかく神様佛様、 有り難うございました!
第5回『白馬雪崩の学び舎』のご案内
第5回目の白馬雪崩の学び舎のテーマは「山を駆け回る、スキーガイドに話を聞いてみよう」です。
ゲストを連れてその時々の気象条件に合わせて滑る場所を選択しているスキーガイドの皆さん
何を考え山と向き合い、雪崩を捉えているのかをお伺いしたいと思います。
詳細、お申込みは以下から
皆様のご参加をお待ちしております。